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		<title>Another Morning</title>
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		<description>音楽、本、映画 etc・・・　毎週木曜更新予定</description>
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		<item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=143"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=143</link><title>ブログ引っ越しました</title><description>いつもご愛読いただきありがとうございます。本ブログ「Another Morning」は下記アドレスに引っ越しました。引き続きよろしくお願いします。http://blog.livedoor.jp/raycat/</description><content:encoded><![CDATA[いつもご愛読いただきありがとうございます。<br />本ブログ「Another Morning」は下記アドレスに引っ越しました。<br />引き続きよろしくお願いします。<br /><a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://blog.livedoor.jp/raycat/" target="_blank"><u>http://blog.livedoor.jp/raycat/</u></a>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-08-27T21:55:39+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=142"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=142</link><title>過去と未来の交差点</title><description>THE STONE ROSES『THE STONE ROSES』　最近、毎朝のように電車の中で聞いているのがこの、ストーン・ローゼズのファースト。1989年のアルバムです。　ストーン・ローゼズはイギリスのバンドです。もう解散してしまっています。日本ではどの程度知られているのでしょうか。ロックファンなら間違いなく知っていますが、一般的にはあまりメジャーではないのかもしれません。しかし、イギリスのロック史を語る上で決して外せない、「伝説」と呼ぶに相応しいバンドです。彼らがいなければ、90年代のブリットポップブームはもっと違った形になっ</description><content:encoded><![CDATA[<img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/61E4972sPxL._SL500_SL160_.jpg" width="160" height="159" /><br /><b><div style="text-align:right"><span style="font-size:18px">THE STONE ROSES<br />『THE STONE ROSES』</span></div><br /></b><br />　最近、毎朝のように電車の中で聞いているのがこの、ストーン・ローゼズのファースト。1989年のアルバムです。<br /><br />　ストーン・ローゼズはイギリスのバンドです。もう解散してしまっています。日本ではどの程度知られているのでしょうか。ロックファンなら間違いなく知っていますが、一般的にはあまりメジャーではないのかもしれません。しかし、イギリスのロック史を語る上で決して外せない、「伝説」と呼ぶに相応しいバンドです。彼らがいなければ、90年代のブリットポップブームはもっと違った形になっていたでしょう。オアシスやヴァーブといったブームの立役者たちの中には、間違いなくローゼズの遺伝子が息づいています。<br /><br />　彼らはたった2枚しかオリジナルアルバムを残していません。しかも、ファーストとセカンドではガラッと違うので、「これがストーン・ローゼズの音楽」と正確に語ることは困難です。もっとも、彼らのパブリックイメージの9割5分はこのファーストの音でしょう。すなわち、エコーがかったトリッピーなギターと、ロックには珍しいジャングリーなドラム。その上に乗っかった、美しいメロディとハーモニー。セカンドは一転して、重い、大作感に満ちた音に変わるのですが、少なくともこのファーストは、シンプルかつオーセンティックなアルバムだと思います。<br /><br />　ローゼズは決して“目新しい”バンドではありません（20年前のバンドに対しこう言うのも変ですが）。彼らの音楽からは、ビートルズやジャム、スミスといったかつてのブリティッシュロックの匂いを嗅ぎ取ることができます。しかし同時に、決して古いとも感じない。オアシスや初期レディオヘッド、さらにはカサビアンあたりにまでもつながっていくその後の道筋が、耳の中で描けるからです。彼らの音楽には、イギリスのロックの過去と未来が両方詰まっています。ローゼズはよく、それ以前と以降のロックを分ける分水嶺という言われ方をしますが、僕はむしろ、過去と未来をつなぐ「交差点」のようなバンドだと思います。<br /><br />　関東は昨年より17日も早く梅雨入りして、ここ数日はやけに肌寒い日が続いています。こういうどんよりした空気の日には、威勢のいい曲で無理にテンションを上げようとするよりも、ローゼズのような、ふんわりと気だるい曲を聞く方が合ってるような気がします。うん。　<br /><br /><br />代表曲の一つ。<a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=umwQG7fue84" target="_blank"><u>＜Waterfall＞</u></a><br /><br />ボーカルのイアン・ブラウンは、最近ではソロでもローゼズの曲を歌うようです。代表曲<a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=E7dq6w9klDg" target="_blank"><u>＜I Wanna Be Adored＞</u></a>。観客の合唱がすさまじいですね。まさに「アンセム」。それにしても、理系学部の学生みたいだったイアンの、ワイルドな変貌ぶりがすごい！]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-06-05T01:03:37+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=141"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=141</link><title>ロックンロールが好きなだけ</title><description>BEADY EYE『Different Gear&amp;#44; Still Speeding』　今年2月にリリースされたビーディ・アイのデビューアルバム。あのリアム・ギャラガーが率いる新バンドがついに（といってもだいぶ時間が経ってますが）動き出しました。　メンバーはリアム（ボーカル）、ゲム・アーチャー（ギター）、アンディ・ベル（ギター）、クリス・シャーロック（ドラム）という元オアシスの4人。メンツだけを見れば、これはもうほとんど“オアシスそのもの”です。バンド名を変えなくても良かったんじゃないかと思うくらい。しかし、そうはいかないことは、</description><content:encoded><![CDATA[<img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/beady eye 1st.jpg" width="160" height="160" /><br /><div style="text-align:right"><span style="font-size:18px"><b>BEADY EYE<br />『Different Gear&#44; Still Speeding』</b></span></div><br /><br />　今年2月にリリースされたビーディ・アイのデビューアルバム。あのリアム・ギャラガーが率いる新バンドがついに（といってもだいぶ時間が経ってますが）動き出しました。<br /><br />　メンバーはリアム（ボーカル）、ゲム・アーチャー（ギター）、アンディ・ベル（ギター）、クリス・シャーロック（ドラム）という元オアシスの4人。メンツだけを見れば、これはもうほとんど“オアシスそのもの”です。バンド名を変えなくても良かったんじゃないかと思うくらい。しかし、そうはいかないことは、僕らファンもわかっていました。なぜなら、ここにノエルがいないからです。<br /><br />　ノエルを欠きながら、残りのメンバーで「オアシス」としての新曲を書いて、ライブで＜Whatever＞や＜Rock’n’roll Star＞を歌う、なんてことはやはりどこか決定的に違う。ノエルは単にメインコンポーザーであったという以上に、オアシスというバンドにとって絶対に欠けてはならない“核”だったのです。<br /><br />　だから、リアム達が新たなバンドを作るというニュースを聞いたとき、僕は「オアシスの延長線」を期待するのはやめようと思いました。しかし、同時に彼らがどんな音楽を作るのか、さっぱりイメージはできませんでした。オアシス時代にも、リアムやアンディ、ゲムが曲を書いていたことはあります。けれどそれは「オアシス」という枠の中でのこと。枠そのものが無くなった今、彼らがどういう音楽を作るのかは未知数でした。<br /><br />　その答えは昨年の暮れにリリースされた、ビーディ・アイ名義での最初のシングル＜Bring The Light＞にすべて入っていました。3コードでひたすら押す、なんだか聞いていて思わず恥ずかしくなるくらい、単純明快なロックンロール。ピアノがなんとも古典的なリフを刻み、まるで60年代のようなレトロな香りが漂っています。オアシス時代からビートルズやザ・フーのカバーを散々やっていたし、インタビューなんかでも「オールド・ロックンロール愛」をしょっちゅう喋っていたので知ってはいたのですが、改めて思いました。彼ら（特にリアム）は、本当にピュアな「ロック少年」だったのですね。<br /><br />　アルバム4曲目に＜Beatles And Stones＞という、“まんま”の曲があります。東日本大震災へのチャリティーソングとして発表したのが、オリジナル曲ではなくビートルズの＜Across The Universe＞のカバーだったことも象徴的です。キャリア的にはもうベテランの域なのに、未だにロックに憧れている彼らがなんとも愛しい。アルバムタイトルの「Still Speeding」はそういう意味なのかも知れません。<br /><br />　アルバムを全編通して聞くと、とにかくリアムが頑張っているという印象。ボーカルの強度はオアシス時代よりもさらにレベルアップしています。責任感のようなものなのでしょうか、彼がとにかくバンドを引っ張っていこうとしているのが伝わってきます。彼が一人の自立した、成熟したミュージシャンだったことに、今さらながら驚きました。そう考えれば、彼がノエルの保護下から離れたのは必然だった気がしてきます。<br /><br />　今回のデビューアルバムで、リアムが目指している方向みたいなものはわかりました。今後、この時代に逆行するようなかっこいいロックに突き進んでいくことを期待しています。<br /><br />「Abbey Road Studio」でライブ収録されたファースト・シングル<a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=kj_dEawTrMY" target="_blank"><u>＜Bring The Light＞</u></a><b></b>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-05-29T23:45:40+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=140"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=140</link><title>村上春樹と冒険</title><description>『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』村上春樹（文藝春秋）　僕が初めて読んだ村上春樹の小説は、『ねじまき鳥クロニクル』でした。たしか10代の終わり頃だったと思います。『ねじまき鳥』を最初に読んだというと、大体驚かれます。なんていうか、ビートルズで言えばいきなり『ホワイト・アルバム』から入る、みたいなものですから。しかし、これは狙ったものでもなんでもなくて、単に「実家の本棚にあったから読んでみた」という、ごく気軽なものでした。　多くの読者と同じように、僕ももちろん、衝撃を受けました。「面白い！」と</description><content:encoded><![CDATA[<img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/img_828630_33592103_0.jpg" width="120" height="175" /><br /><b><div style="text-align:right"><span style="font-size:18px">『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』<br />村上春樹</span><br />（文藝春秋）</div></b><br /><br />　僕が初めて読んだ村上春樹の小説は、『ねじまき鳥クロニクル』でした。たしか10代の終わり頃だったと思います。『ねじまき鳥』を最初に読んだというと、大体驚かれます。なんていうか、ビートルズで言えばいきなり『ホワイト・アルバム』から入る、みたいなものですから。しかし、これは狙ったものでもなんでもなくて、単に「実家の本棚にあったから読んでみた」という、ごく気軽なものでした。<br /><br />　多くの読者と同じように、僕ももちろん、衝撃を受けました。「面白い！」という意味での衝撃ではなく、「わからん！」という混乱からくる、文字通りの衝撃でした。頭に焼き付いたのは強烈な性描写の多さと（ま、10代ですから）、あの皮剥ぎ人ボリスの場面。しかし、肝心の物語はというと、不可解すぎてまるで理解できませんでした。<br /><br />　その後、デビュー作の『風の歌を聴け』から順を追って読んでいったのですが、正直、初めのうちは「村上春樹」というブランドへの憧れで読んでいたところが少なからずありました。しかし、それでも結局、一年か二年の間に長編も短編もエッセイもほぼ全作品を読んでしまったのは、やはり何か心に引っかかるところがあったからだと思います。ちょっとカッコつけた言い方をすれば、彼の作品には、当時の僕にとって何かしら大事なことが書かれているように思えていたのです。そのような予感が、しつこく僕を彼の作品世界へと導いたのでした。<br /><br />　しかし、量を読んでもなお、「わからん！」という感覚は残りました。いくつか作品を読むことで、彼の作品に共通するコードのようなものが身に付くのではと考えていたのですが、いくら読んでも、むしろ読めば読むほど、物語の闇は深さを増しました。<br /><br />　そうするうちに、僕は次第に「この物語は頭で理解するものではないのでは」と考えるようになりました。彼の小説には、不可解な出来事や意味深な台詞がたびたび登場します。その一つひとつの意味を解釈し、「正解」を解こうとする必要はないんじゃないかと思ったのです。なぜなら、なにも物語の謎が全て解けなくても、読み終えた時には必ず身体の中に何らかの強烈なイメージが残り、相変わらず彼の作品へと向かわせるあの「予感」めいたものが消えなかったからです。だったらそれでいいじゃないか。僕にとって彼の作品の面白さは、「理解できる」「できない」という範疇の外にあることに気付いたのです。<br /><br />　先日、村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読みました。この本の中で、世の中に「村上春樹解読本」的なものが数多く出版されている風潮に対し、村上春樹自身は「虚しい」と語っていました。物語を、何でもかんでも整合性や意味付けに落とし込んで理解しようとするのは、一種のゲームです。頭の体操としてはそれなりに面白いかもしれませんが、「物語そのものを楽しむ」という点からすると、なんとなくそれは不毛ではないかと言うのです。<br /><br />　では、整合性でも意味付けでもなく、トータルな世界として物語を楽しむために重要なのは何なのか。村上春樹はそれを「想像力」と答えます。<br /><br />　「僕の物語では確かに不可解で脈絡のないような出来事が起きる。現実的な、物理的な観点からすれば、それらに整合性はない。しかし、肉体を離れ、自分が一つの想像力のカタマリになった時、どんな不思議な出来事も、それが真実であるということが、皮膚感覚でわかるのではないか」と、そのようなことを語っています。とても感覚的な話ですが、このイメージ自体が、まるで彼の小説のようで面白いですね。<br /><br />　僕にとって村上春樹の小説は、冒険小説に似ています。彼の作品にはジャングルも深い海の底も宇宙も出てきませんが、そこには必ず不思議な体験があり、背筋の凍るような恐怖があり、何かへと向かう強い意志があります。それらは目に見えるものとは限らないし、特定の言葉で表せるものでもありません。しかし、確かに感じることができる。ページをめくるたびに、物語そのものに自分自身が溶けていくような感覚を味わいます。それは他の小説にはない感覚です。いわゆる冒険小説が未知の「場所」を旅するものだとすれば、村上春樹の小説は未知の「感覚」を旅するものと言えるかもしれません。「村上春樹の小説を読む」ということ自体が、僕にとっては冒険なのです。<div style="text-align:right"></div><div style="text-align:right"></div>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-05-22T21:48:44+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=139"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=139</link><title>あれから2ヶ月、2つのリアル、ディキシー・チキン</title><description>LITTLE FEAT 『DIXIE CHICKEN』　震災から2ヶ月が経ちました。あれからたった2ヶ月しか経っていないことに驚かされます。もっと長い時間が経ったように感じます。　一部の地域を除いて、首都圏の生活は以前のリズムをほとんど取り戻したといっていいでしょう。街の明るさが減ったくらいで、電車もダイヤ通りに走っているし、スーパーにもコンビニにも商品が戻ってきました。テレビのニュースでも、震災以外の情報が占める割合が増えてきています。　しかし、2ヶ月前のあのショックというものは、依然として気持ちの底の方に、生の形のまま</description><content:encoded><![CDATA[<img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/LittleFeat-DixieChicken.jpg" width="160" height="160" /><br /><div style="text-align:right"><span style="font-size:18px"><b>LITTLE FEAT 『DIXIE CHICKEN』</b></span></div><br />　震災から2ヶ月が経ちました。あれからたった2ヶ月しか経っていないことに驚かされます。もっと長い時間が経ったように感じます。<br /><br />　一部の地域を除いて、首都圏の生活は以前のリズムをほとんど取り戻したといっていいでしょう。街の明るさが減ったくらいで、電車もダイヤ通りに走っているし、スーパーにもコンビニにも商品が戻ってきました。テレビのニュースでも、震災以外の情報が占める割合が増えてきています。<br /><br />　しかし、2ヶ月前のあのショックというものは、依然として気持ちの底の方に、生の形のまま残っています。「以前とは違う」という感覚が、木の根のようにがっちりと食いついて離れません。自分の身体の外と内、どっちの「現実」が本当なのか、まだ混乱しています。<br /><br />　ただ、今にして思うのは、結局僕がこの2ヶ月の間にやったことというのは、ただなす術もなく混乱していただけではないかという後ろめたさです。節電をして、募金をして、自分からニュースを掻き集めて関心を持ち続ける。それが僕にできた精一杯だったと思う一方で、例えばその気になればボランティアに行けたでしょうし、もっと直接的で具体的なアクションを起こせたのではないかとも思のです。節電も募金も、単なる言い訳なんじゃないかとさえ思うこともあります。<br /><br />　2ヶ月前から続くこのショックというリアルと、避難生活や原発や風評被害というリアル。僕の身体の外と内の2つのリアルには、明らかに温度や質に差があるのです。<br /><br />　そんななかで、先日ネットのニュースで精神科医の香山リカの文章を読みました。<br /><br />　「今回のような災害が起きると、人は被災者に対して深く同情すると同時に、心のどこかで『自分でなくて良かった』と感じる。多くの人は、そのように感じることに対して罪悪感を持ってしまう。しかし、それは『分離』という、心が持つ重要な防衛機能である。被災者に対して被害を受けていない人間が無理に同化しようとすれば、そこから抑鬱状態に陥る可能性もある。そうならないためにも『自分でなくて良かった』と感じることは正しい反応だし、その感覚を否定する必要はない」と語っていました。僕はけっこうこの記事に救われました。<br /><br /><a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://diamond.jp/articles/-/11844" target="_blank"><u>被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある</u></a><br />（ダイヤモンド・オンライン）<br /><br />　「罪悪感」や「後ろめたさ」って、けっこう多くの人が感じてるんじゃないかと思います。震災直後の「震災ハイ」状態が落ち着いてきたから余計に。でも、香山リカが言うように、それをあまりにシリアスに感じ過ぎてしまってはいけない。僕らにできる一番大事なことは、やっぱり毎日の生活をしっかり送ることだと思うので（<a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51619289.html" target="_blank"><u>3/17のエントリー</u></a>）、精神のバランスを崩してしまっては元も子もありません。それに、そもそも直接被害を受けていない人間が被災者に同化できるわけないし、またその必要もないと思います。<br /><br />　自分の無力さに対して絶望しないことって、難しいですね。実際、1人の力ってホントに小さいですから。ただ僕が思うのは、自分の無力さを「自覚」することと、そのことに「絶望」してしまうことは、似ているように見えて大きな違いがあるんじゃないかということです。<br /><br />　「自分は何もできない」という事実にふさぎ込んでしまうのは簡単ですが、それは被災者のことを考えているように見えて、自分にだけ目を向けているに過ぎません。直接的被災者ではない人間に今（そしてこれから）求められるのは、被災者に気持ちを（たとえ誤解や勘違いが含まれていても）寄り添わせることです。そして、自分の生活を淡々と、粛々と、営んでいくこと。自分の無力さを受け入れることは、そのための第一歩であり、必要な手順なんじゃないかと思います。<br /><br />　・・・どうも観念的な話ばかりになってしまいました。最後に思いっきり観念的で個人的なことなことを一つ。<br /><br />　震災が起きてからしばらく音楽が聞けませんでした。かけてもなかなか耳に入ってきませんでした。しかし1ヶ月くらい経った頃でしょうか、テレビをつけていたらリトル・フィートの「ディキシー・チキン」が流れたんです（なんかのVTRのBGMとして使われてました）。その時、ようやく久しぶりに「音楽を聞く」という感覚を味わいました。<br /><br />　リトル・フィートは70年代に活躍したアメリカのバンドです。ブルースやゴスペルやR&Bといった、アメリカ南部の音楽をルーツに持つ、かなり濃いめ・渋めの音を鳴らすバンドなのですが、そのなんとも土っぽい匂いがとても心地良かった。国も時代も違うのに、しかも耳を傾けているこちらの状況も決して普通とはいえない状態なのに、なぜか自然にフィットしてしまうのですから、やっぱり音楽って力がありますね。この曲をタイトルに冠したアルバム『ディキシー・チキン』（1973年）は、もう何年も聞いていなかったアルバムだったのですが、以来繰り返しかけるようになりました。<br /><br /><br /><u><a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=1FekVR_SC5M" target="_blank">LITTLE FEAT「DIXIE CHICKEN」</a></u>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-05-12T21:00:53+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=138"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=138</link><title>王様だって、頑張ってる！</title><description>映画『英国王のスピーチ』　先日、『英国王のスピーチ』を見てきました。イギリス王室史上「もっとも内気な国王」と呼ばれた、ジョージ6世を描いた映画です。今年の3月に行われた第83回アカデミー賞では作品賞をはじめ計4部門を受賞しました。話題作なので、見た方も多いと思います。僕もようやく見ることができました。　ジョージ6世は、現在のイギリス女王・エリザベス2世の父にあたります（先日結婚したウィリアム王子からすると曽祖父にあたる人物ですね）。彼は幼い頃から吃音症に悩まされ、そのせいで人前に出ることが極端に苦手で</description><content:encoded><![CDATA[<a href="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/20110506205254jpg" target="_blank"><img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/20110506205254jpg" width="129" height="180" /></a><br /><div style="text-align:right"><b><span style="font-size:18px">映画『英国王のスピーチ』</span></b></div><br />　先日、『英国王のスピーチ』を見てきました。イギリス王室史上「もっとも内気な国王」と呼ばれた、ジョージ6世を描いた映画です。今年の3月に行われた第83回アカデミー賞では作品賞をはじめ計4部門を受賞しました。話題作なので、見た方も多いと思います。僕もようやく見ることができました。<br /><br />　ジョージ6世は、現在のイギリス女王・エリザベス2世の父にあたります（先日結婚したウィリアム王子からすると曽祖父にあたる人物ですね）。彼は幼い頃から吃音症に悩まされ、そのせいで人前に出ることが極端に苦手でした。国王になる気などさらさらなく、社交的な性格の兄・エドワード8世が父の跡を継いで国王になると、自分は裏方役として兄を補佐したいと望んでいました。<br /><br />　しかし、いざ国王の座に就いたエドワード8世は、年上女性との不倫が原因で（実話！）、わずか1年足らずで退位。結局、弟のジョージ6世が、とばっちり的な形で王位を継ぐことになったのです。国王の座に就いたのは、1936年。ヨーロッパでは、ナチスドイツの脅威が吹き荒れようとしていた時代です。イギリスにとって、まさに国難と呼ぶべき時代に王座に就いたのです。<br /><br />　破竹の勢いで進撃するドイツは、ついにイギリスとも戦端を開きます。国民は激しく動揺します。ジョージ6世は国王として、不安に揺れる国民に向けたスピーチを送ろうと決意するのです・・・。<br /><br />　期待通りの素晴らしい映画でした。脚本も素晴らしいし、映像も美しい。とりわけ、ジョージ6世とスピーチ矯正の専門家・ライオネルとの会話シーンは、いずれも緊張感とユーモアとが混沌としていて、圧倒的な完成度を感じました。ジョージ6世を演じたコリン・ファースはこの映画でアカデミー賞の主演男優賞を受賞しましたが、ライオネルを演じたジェフリー・ラッシュや、ジョージ6世の妻・エリザベスを演じたヘレナ・ボナム＝カーターなど、脇を支える俳優陣の演技も素晴らしかったですね。<br /><br />　しかし、僕がもっともグッときたのは、物語を通じて描かれる、ジョージ6世の葛藤です。<br /><br />　彼は、自分が国王に向いていないことを痛感しています。ほんの些細なスピーチですら言葉に詰まり、逆に聴衆から心配されてしまう始末です。「国王とはイギリスのスポークスマンだ」と父・ジョージ5世は言いますが、そんな役目を果たせるわけがないことは、自分が一番よく知っています。しかし、一方で彼はとても生真面目で、責任感が誰よりも強い。その性格が結局、国王を継がせることになるのです。<br /><br />　前回、映画<a href=” http://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51630480.html”>『SOMEWHERE』</a>について書いた時に、「ここではないどこかへ」という話をしました。『SOMEWHERE』が、ここではない“どこか”へ向かう物語だったのに対し、『英国王のスピーチ』は“どこか”を心に描きつつも、“ここ”で生きていく決意を語った物語だったと言えます。<br /><br />　ジョージ6世は何度も自分を変えようと努力します。吃音症を治そうと何人もの医者の診察を受け、見るからに怪しい治療法にまで手を出します。しかし、一向に成果は上がりません。さらに、決して望んでなどいなかった国王という重責を背負うことになります。彼は、心に描いていた「ありたい自分」からは遠くかけ離れた己の運命というものを受け入れるのです。この点、『SOMEWHERE』のジョニーとはとても対照的です（もちろん、ジョージ6世には現実的に“どこか”を選ぶ自由はなかったでしょう。なんといっても彼は「国王」ですから）。<br /><br />　結局、ジョージ6世は最後のスピーチの場面に至っても、吃音症を治すことはできません。ではどうやったかと言うと、あの手この手で“ごまかす”んですね。なんとか“ちゃんと喋ってる風”を取り繕って、乗り切るのです。僕はここがとても面白いと思いました。堂々と淀みなく演説できるという、本来の「あるべき国王像」からすれば、それは欺瞞なのかもしれません。でも、それが彼の運命の受け入れ方であり、彼にしかできない国王としての生き方なのです。その必死さはなんとも悲哀があり、同時に滑稽でもあり、しかしなんだかムズムズと「人間っていいなあ！」と感じるのです。<br /><br /><br /><a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=uS3SWKfQZh0" target="_blank">『英国王のスピーチ』予告編</a>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-05-06T20:52:05+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item><item rdf:about="http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=137"><link>http://www.t-p-b.com/blognray/index.php?eid=137</link><title>余白でしか表現できないもの</title><description>映画『SOMEWHERE』　久しぶりに震災以外の話題を・・・。　先日、映画『SOMEWHERE』を見てきました。あの『地獄の黙示録』で有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラが監督を務めた映画です。　華やかな生活を送るハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ（スティーブン・ドーフ）と、別れた妻の元で暮らしている11歳の娘・クレオとの数日間の同居生活を描いた物語。これといった事件は何も起こらず、大きな見せ場も練られた伏線も一切無い、ただ淡々と過ぎていく日常を追っていく、とても静かな映画です。　</description><content:encoded><![CDATA[<img src="http://www.t-p-b.com/blognray/pic/img_movie.jpg" width="121" height="171" /><br /><div style="text-align:right"><span style="font-size:18px"><b>映画『SOMEWHERE』</b></span></div><br />　久しぶりに震災以外の話題を・・・。<br /><br />　先日、映画『SOMEWHERE』を見てきました。あの『地獄の黙示録』で有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラが監督を務めた映画です。<br /><br />　華やかな生活を送るハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ（スティーブン・ドーフ）と、別れた妻の元で暮らしている11歳の娘・クレオとの数日間の同居生活を描いた物語。これといった事件は何も起こらず、大きな見せ場も練られた伏線も一切無い、ただ淡々と過ぎていく日常を追っていく、とても静かな映画です。<br /><br />　台詞も極端に少ない。特に冒頭20分くらいはほとんど台詞らしい台詞はありません。そのかわり、登場人物の瞳の揺れや、ため息や、口元のわずかな動きといった、仕草の一つひとつが濃密で、「映画を見ている」というよりは、彼らに寄り添いながらその生活を覗いているような感覚を抱きます。<br /><br />　主人公ジョニーは、フェラーリを乗り回し、毎晩のように酒と女に溺れる派手な生活を送っています。しかし、表面的な華やかさとは裏腹に、心の中では空しさを感じ続けています。<br /><br />　彼は長い間ずっとホテル暮らしを続けているのですが、時折り部屋で一人になると、何もすることがなくなってしまいます。ぼんやりと煙草を吸うことくらいしか、退屈さを紛らわす術がありません（しつこいようですが、これらは全部ジョニーの仕草を通してしか窺い知れません）。しかし、台詞が少ないからこそ、彼の感じている退屈さや空しさが伝わってきます。<br /><br />　もっともその虚無感は、決して切迫したものではありません。酒があれば簡単に洗い流せるし、目を背けようと思えば誰かしら女性を呼べば済んでしまう。しかし、その“差し迫っていない感じ”が、逆に厄介です。<br /><br />　そんな彼の元へ、母（元妻）が家を空ける間だけ、娘のクレオがやってきます。これまでにもクレオはジョニーをたびたび訪れているので、2人で時間を過ごすことは珍しいことではありません。一緒にゲームで遊んだり、プールで泳いだり、料理を作ったりと、他愛のない父娘の生活が進んでいきます。静かに、淡々と。<br /><br />　やがて、クレオはサマーキャンプに行くため、ジョニーの元を去ります。再び一人の暮らしに戻ったジョニー。しかし、何かが今までと違うことに気付きます。アルコールも裸の女も、もはや以前のようには彼を虚無から救ってはくれません。クレオの不在によって、ジョニーは初めて自分自身の空虚さに向き合わざるをえなくなるのです。<br /><br />　彼は住み慣れたホテルをチェックアウトすることを決めます。車を飛ばして都会を離れ、そして、何もない田舎道の真ん中で不意に車を止め、今度は自分の足で歩き始めます。彼は、今までいた場所から、出ていこうとするのです。<br />　<br />　「ここではないどこかへ」。これは近代以来、物語が絶えず挑み続けてきたテーマです。しかしこの映画では、その「どこか」がどこ（何）なのかを描こうとはしません。クレオの元へ行くのか、俳優を廃業することを決めたのか、ただの衝動的な行動なのか、この映画はやはり何も説明してはくれないのです。何も語らず、何も指し示さず、すべては淡い余白のなかへ。<br /><br />　しかし、本来「どこか」とは、淡い余白のような存在です。行き先も、道順も、そんな場所が本当にあるのかさえもわからない。今いる場所よりもさらに不幸になる可能性だってある。そもそも「ここではないどこかへ行く」ということは、一種の脱出です。脱出には、行き先のアテや、成功する保証はありません。何一つわからない。この映画の特徴である淡い余白は、実は“somewhere”（どこか）そのものだったのです。<br /><br />　それよりも、脱出において重要なのは、とにかく何でもいいから外に出る！ということです。つまり、意志です。ジョニーがどれほどの強い意志を持っているかは（やっぱり）わかりません。しかし、彼はあの乗り慣れたフェラーリを捨てていくのです。それが象徴的です。<br /><br />　キーを挿しっぱなしにしたフェラーリが、耳ざわりな警告音を、ジョニーの背中に向かって鳴らし続けます。それでも彼は歩みを止めません。ギュッギュッと、地面を踏みしめるようにして歩くジョニー。その姿は何かにひどく焦っているように見えます。彼を突き動かしているのは何なのだろう。幻想かもしれない“somewhere”に向かって、それでも彼を前に進ませる意志とは、一体何なのだろう。言葉にできそうで、できません。淡い余白でしか表現できない大切なものが、世界にはきっとあるのです。<br /><br /><br /><a href="http://www.t-p-b.com/blognray/http://www.youtube.com/watch?v=aExgu9964Jc" target="_blank"><u>『SOMEWHERE』予告編（英語）</a></u>]]></content:encoded><dc:subject /><dc:date>2011-04-28T01:07:30+09:00</dc:date><dc:creator>Ray KINOSHITA</dc:creator><dc:publisher>Blogn</dc:publisher><dc:rights>Ray KINOSHITA</dc:rights></item></rdf:RDF>
